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 寄せ書き 
醍醐忠和「星との六十年 旅路の手帖」

東京高等師範附属中学 同級生
(一) 彼との戦前、戦中時代

星との出逢いは昭和十四年四月、東京高等師範附属中学へ入校の日だ。
彼は東京女子高等師範(お茶の水)附属小学校から受験して入校し、私は小学校から中学が繋がっている特典で受験勉強をしなくても入学出来た。
一学年三組編成で、彼とは同クラスになり、生涯の極めて深い親しい交際が始まった。

クラスは四十人で、私が一番背が高く、次が星だった。 教室のデスクの配置は、背の低い方から最前列で横に並び、次の背の順に次の列に横並びする方式なので、私と星は最後列の隣同士で座ることとなり、年度毎の組替えは無いので、星が四年修了で旧制官立高校に移り、中学を去るまで、この隣同士の関係は変わらなかった。 学校でだけでなく、二人はお互いの家庭も訪ね合って友情を深めたが、彼が先に中学を離れても親しい交流に何の変わりも無かった。 二人の仲は十二歳で出会って以来、六十年近く続くことになる。

中学校の授業では、彼は所謂秀才と言えるタイプで、先生の質問に「ハイ! ハイ!」と手を挙げることはせず、他の生徒への指名に委せ、誰の手も挙がらない時に静かに手を挙げて正解を答えることが度々あった。 別段得意顔とか嬉しそうな表情はなく、いつものにこやかとも見える地顔で……。

入校して春も深まったころ、当校には競艇部があって、東京では開成中学に同じ部があり、二校で年に一度のボートレースが荒川の戸田橋競艇場で行われており、大事な行事で全学年の生徒有志で応援に駆け付けていた。

レースは接戦で、声を限りの応援をしたが、残念ながら敗けで終わった。 漕ぎ手と舵手の選手達全員五年生は、ボートを我々の居る川岸に寄せて上陸して来て並んだ途端、皆一斉に涙を手で拭ったのだ。
そして、
「申し訳ない、申し訳ない、四年生、来年は必ず勝ってくれ! 頑張ってくれ! 頼んだぞ!」
と叫ぶように我々に告げたのだ。 私はびっくり仰天した。 男の涙というのは小学時代、見たことがなかった。 しかも筋骨隆々の、当時で言えばポパイのような先輩たちの涙だ。
応援団で貰い泣きをした生徒が居たかは知らない。 その時である、我々と応援の群になっていた上級生の一人が星の方を向いて、
「こら! ニヤニヤすんな!」
と怒鳴るようにきつい表情で言ったのだ。 こちらは二度びっくり。 何も星はニヤニヤしていたわけではない、優しい地顔なのだ。 星は別段迷惑そうな顔をするわけでもなく、只、黙っていた。 こちらが援護の口を出す訳にも行かなかった。

日の経つにつれ、彼と日ごとに親しくなり、放課後や休日にお互いの家を訪ねて話合う機会が増え、先ず彼が私の家で興味を持ったのはシンフォニーのレコードであった。 私はその少し前に先輩に誘われ、日比谷公会堂での日響(現在のN響)の演奏を聴きに行くようになっていて、特に気に入った曲のレコードを買うようになっていた。 シューベルトの「未完成」、ベートーヴェンの「運命」、「田園」、チャイコフスキーの「スラヴ行進曲」や「悲愴」などが大好きであった。 星は一九九〇年の自著『きまぐれ遊歩道』でその頃の事やクラシックファンであったことを書いているが、自分もレコードを集め出し、それを私が聴きに行くという楽しい往来が始まった。

彼は最初の頃、ベートーヴェンでは「第八」が明るくて大好きだ、と言っていた。 ラロの「スペイン交響曲」なども好んでいた。 馴染み深い「ボレロ」は二人で何回もかけて楽しんだものだ。

戦前の旧制中学は五年制で、一般的には五年で卒業し、官立の旧制高等学校や私大の予科などを受験する。 陸海軍の将校を目指すものは五年の途中、及びその前後一年のものが受験できた。 そういう制度の下、星は数少ない四年修了で旧制東京高等学校に合格し、中学生活を終えた。 しかし星と私との交流は何ら変わることなく、日を追う毎に深まって行った。

中学三年生の時の十二月八日、日本によるハワイの真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。 日本海軍は、そもそも斯かる戦争開始には反対だったのだが、国として開戦が決まれば戦術として先ず敵の空母を沈めることが必要で、ハワイの港を襲ったが、この時、魚雷を抱いた五隻の小型潜航艇に海軍兵学校出の将校と下士官の二人ずつが各艇に乗り、体当たりをして戦艦を沈め、九人が玉砕され、全国民から崇められた。 国も軍神として祀った。 中学三年(十四歳)だった私も将に感激の極致で、国の為に命を捧げた方々に心からの敬意を捧げると共に、こちらはどうだ、映画だ、音楽会だ、などと楽しんでばかりではないか、これでは申し訳ない、よし、私も海軍将校になって国の為に尽くそう、と思い立ったのだ。

そして五年生になっての夏、海軍将校を育む海軍兵学校の四日間の学科試験があり、幸い合格したので、十二月一日、瀬戸内海江田島にある同校に入校した。 軍人ではなく将校生徒だが、服装は将校と同じで資格は少尉准尉のすぐ下、下士官の上で短剣が吊れた。

毎日、海軍将校として必要なあらゆる学科や訓練に明け暮れたが、日曜は休養日で、校門を出て島内での自由行動が許されていた。 勿論、遊ぶような施設はない。 学校は広島県呉市から小舟で数十分、江田島の小用という港に着いて、そこから島内を数十分歩いた所に校門があった。

或る日曜日のこと。 入校から四、五ヶ月経った頃であったか。 校門を出たら、何と星と、同じく親しい級友の辻君の二人が立っていて、私を待っているではないか。 何ともびっくりすると同時に、この上ない嬉しさがこみ上げた。

何と心暖かい友達か。 東京から海を挟んで八百キロ以上あるだろう。 それでも自分達の貴重な時間を割いて逢いに来てくれたのだ。 心の底から感謝だ。 三人で本当に貴重な半日を過ごした。



(二) 苦しみを乗り越え、宇宙に親しむ彼 (友情は益々深く)

彼は東京本郷での生れ育ちだ。 その後、五反田から国道一号線の坂を上って右側の家に移っていた。 お父様の一(はじめ)様は、戦前有名な「ホシ胃腸薬」を製造する星製薬を創建、経営に当たられ、その工場は五反田駅に近く、聞いた記憶が正しければ、土地は約一万坪、工場建物は数千坪の壮大なものだった。 福島県のご出身で、当時としては珍しいアメリカ留学で勉強され、帰国してこの製薬会社で成功され、同郷の野口英世博士を支援されたことでも有名であった。

私はお宅へ良く伺ったが、戦時中の東京空襲で我が家は焼失し、西多摩地域に疎開して終戦を迎えたので、星に会いに上京すると、そのまま一泊を勧められ、有難く泊めてもらった。 その或る時、星と部屋で話していると、唐紙が開いて、今帰宅されたお父様が、親し気なお顔でこう呼びかけて下さった。
「醍醐さん、日本はこれからですよ。」

お父様はその後、戦後の日本の議会に参議院が生まれた時、その第一回の全国区選挙に出馬され、四十八万票を超える最高得票数で、見事当選された。
しかし、なんと残念極まりないことか。 その後、お嬢様(星の妹さん)を帯同されて、アメリカへご出張の折、急な病に襲われ、急逝されてしまった。 今でも思い出して懐かしく、只々ご冥福を祈るばかりだ。

お母様は戦後、ご親切に泊ってゆくよう仰って下さり、ご厚意に甘えて星と枕を並べて遅くまで話し合い、翌朝、私が一人の処へおひつに白米のご飯を一杯入れて、おかずと共に出してくださった。 戦後の日本は全く哀れな食糧不足時代で、白米など闇市場で余程の高値をださなければ手に入らず、皆、芋や芋の蔓でも食べて飢えを凌いだ時代である。 星家のお里は福島県なのでお米の自給が出来たのかは知らないが、私にとってはこんな有難い嬉しいご馳走はなかった。

お父様のご逝去後、長男の星は星製薬を担うことになったが、会社は全くの経営難に陥っていたようだ。 一万坪の敷地、三千坪の工場で薬の製造に稼働している部分は百坪位だった由、星は本当に苦しんだろう。 東大の農芸化学科を卒業して、まだ日の浅い彼が経営をとり仕切るということは大変なことであったろう。 まだ社会の複雑さを知らなかった彼は、全く不本意な形で会社を手放さなくてはならないことになってしまったのだ。 私は大阪が本社の総合商社勤務だったので、この彼の一番苦しかったであろう時代の詳しい状況は知らなかった。 又、仮に何か知ったとしても何も出来なかったであろう。

彼はどんなに辛かったであろう。 彼がS・Fというまったく新しい世界に惹かれたことと関係があるのではないか、と、後に彼と話していて本当に気の毒だと思うと同時に、素晴らしい彼の人生の飛躍の基だったようにも思った。

昭和二十九年、私は東京へ転勤となって、また星とゆっくりとした時間を持つ様になった。 東京支社は東京駅八重洲口から銀座通りと繋がる角のビルの四階から七階を占め、私は六階の繊維部勤務だった。 仕事は営業なので外出が多く、夕方、ビルへ戻るとエレベーターの前などで「醍醐さん、星さん、また見えてますよ」等と云われることがよくあった。 席に戻ると、星が課長と、隣の私の席に座って、にこやかに話し合っている。

日によって、それから海外の得意先へ取引の電報を打つ業務があったが、その時は星に更に待ってもらい、用事が終わって五時過ぎになれば、課長に「今日はお先に失礼します」と告げて、星とビルを出て、銀座のど真ん中の七丁目にあるビル一階の小さなカウンターバー「琥珀」へ向かう。 ビルへ入ってすぐ左側にバーのドアがあり、入ると何と天井は右から左へ斜めに高くなっている小部屋で、すぐの所に横一杯のカウンター。 こちら側に客六、七人用の椅子、そして向かいにはママと八重ちゃんという中年の女性が立っていた。 何故天井が斜めかと言うと、此処はビルの二階へ上る階段の下なのだ。 足音がすることもあるが、お喋りの楽しさはそれに優る。 星の大好きなバーだった。

星を交えての会話はいつもユニークで、その折々の政治、経済や社会の出来事についての話は誰も云い出さなかった。
星は普段頭にあることや、その場で思いついたことを滑らかに喋りだす。 例えばこんなふうだ。
「輪ゴムを発明した人はえらいな」
「鉛筆を丸いのから六角形にした人はえらいな」
「鉛筆の頭に消しゴムを付けた人はえらいな」、などなど。
その場で気付いたように云いだしたのは、
「人間の腕の長さってどうしてこれ位なのだろう?」
その場で答えは見いだせず、次回、飲んでいる折に、
「多分、人間の手の長さは木に実っている実を採りたくて、長い間にこれ位の長さになったのではないかな」、だって。

盃を交わし乍らママ達も一緒に楽しくお喋りしたものだ。 話の合間に皆でダイスをやって、サイコロの転がりで負けたものが数寄屋橋通りの有名中華店の餃子を配達して貰い、奢った。
このバーのあと、会社関係などの飲み会だと他のバーへ梯子をしたものだが、星と飲むのはこの「琥珀」だけだった。



(三) 彼のS・Fへの姿勢

私は小学生時代から伯母が寄席好きでよく連れて行って貰った。 神田立花、新宿末廣亭、人形町末廣亭、上野鈴本等々、都心に数件あった。 星に寄席の話をしたとき、「まだ行ったことがないんだ、是非行きたい」とのことで、新宿末廣亭に二人で出かけた。
戦前の寄席は一階は総畳敷きで椅子はなく、客は煙草盆と煙管を持って好きな場所に座って舞台の噺家の落語を聞いたものだが、戦後は椅子席となり、二階は舞台に向かい半円型で総椅子席となっていた。 我々二人は二階の前列の椅子から舞台を眺める。 数人の落語を聞く中で、古今亭志ん生さんが話した時、星は二階から落ちんばかりに身を乗り出して「巧いなあ、すごいなあ」と廻りにも聞こえる位の声で呟いたのだ。 私も志ん生ファンだから全く同感である。 人間味に溢れ、粋な江戸っ子の味が十分に発揮されている。

以後、私は密かに感じていた。 星がS・F小説で名を高めてゆく中に志ん生から得た微妙な味が溶け込んでいったような気がしたのだ。 誠に微妙、私の勝手な想像に過ぎないが……。

彼のS・F処女作は、同好者と作った雑誌「宇宙塵」に書いた「セキストラ」で、これが江戸川乱歩さんに認められて、同氏が主宰の「宝石」に転載され、彼の正式なデビューとなった。 「宇宙塵」は、「こんなものを出したよ」と星は私にも送ってくれた。 昭和三十二年の事である。

続いて「ボッコちゃん」、「おーい でてこーい」などが「宇宙塵」から「宝石」に転載されて行き、星の名は一躍有名になってゆく。 彼はこの時三十一歳だった。
「ボッコちゃん」は、私が昭和二十九年に東京に転勤して星と週一、二回のペースで通った銀座のビルの階段下のカウンターバー「琥珀」の事を思い出す。
もしカウンターの向いに立つママをロボットにして話を作り出したとすれば、彼の発想の鋭さ、素晴らしさに感服するばかりだ。

もう一つ、彼との会話で俳句について語り合ったことがあり、私が俳句好きで、或る女性俳人の発行される句誌に一文を書いたことがあり、星にも送って俳句に興味はないか、と尋ねたことがある。 それに対して彼がくれた手紙は、彼のS・F小説というものに対する基本姿勢について記しており、彼を理解する上で重要な参考資料である、と思った。 そこでその内容を記そうか、とも考えたが、いや、それはやめて、彼の手紙そのままを此処に添付すべきではないかと思った次第。


星新一君からの手紙 (平成五年十一月十四日消印)


先日は電話をいただきましたが、目がよくさめていなくて、申しわけありません。 薬(漢方)を寝る前に飲むので、ねすぎるようです。

先日いただいた俳句についての二つの文章ですが、夜になってゆっくり読みました。 日本の四季についてで、久しぶりにそれを感じ、そんな世界とはなれた私のことを、つくづく感じました。

ショートショートを書いていて、最初のうちは四季を入れましたが、やがて触れなくなりました。 あとで除いたこともあります。

まず、時事風俗的なものを消し、ストーリーの主体性を主にします。 ほかのことに気をとられてもらいたくないわけです。

いい悪いはべつとし、いつ読まれても通じるようにする形です。 それもひとつの方法でしょう。

もう小説の執筆も、ほぼ終りにしますので、俳句も読むとしますか。 昭和二十七年ごろ、作句をすすめた人がいました。 映画界の長老でした。

そんなわけで、すべてゆっくりやるつもりです。
新しいものを発見しそうにありませんし、気楽です。
そのうち、またお会いしましょう。

星新一
醍醐忠和様



(四) 晩年、そして別れ

昭和六十年に近づいた頃、星と、旧制中学時代の同級生で特に仲の良かった五人が、妻を含めた十人で食事会を持つこととし、第一回は当家の食堂と繋がるリビングルームで、皆、飲み物や食べ物の小皿を持ってソファで楽しい会話をしていたが、そのうち星は一人、床の絨毯にごろっと仰向けに寝て思いつくままに好きなことを喋り始め、半時間位も続いた。 例えば、今、社会で話題になっている人について、「ロケットに乗せて打ち上げたい」とか、好きなことを喋っている。 皆、面白がって受け答えしていた。 その後も誰かの家でやったり、評判の中華料理店で開いたりした。

その深い友情で結ばれていた星が、七十一歳で天に召されてしまったのだ。

偶々、私の伯父の義妹が、病を得て高輪の病院に入院されたと聞き、親しかったので、お見舞いに伺った。 すると一部屋おいて、隣の病室の前に椅子を置いて、星の奥様の香代子さんが座っておられるではないか。 びっくりして近寄り声をかけると、香代子さんは「全く奇遇ですね。 でも醍醐さん、主人はもう、全く分からない状態なんです。 話は全く通じません」と云われた。 私は彼が急に体調を崩しているとは知らなかった。

病室へ入る。 横たわった彼の眼は閉じたままである。 私は駆け寄って思わず声をかける。 「おい、星、僕だよ。元気をだしてくれよ。又一緒に楽しく飲もうよ。星、星、元気出してくれ」

私は必死だった。 彼の寝顔をしっかり見つめ、回復を祈った。

するとどうだろう。 何を云っても通じない、と云われていた星の眠った目尻から、すうっと一筋、涙が流れたのだ。
「あ、彼はわかってくれた!」

私も涙がこみ上げてくるのを抑えられなかった。 彼との中学一年からの付き合いは終わってしまった。 こんな悲しい残念なことはない。

「星の魂、健やかに!」と祈るばかりだ。



2021年4月

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